今回は翻訳家の上野圭一先生をご紹介します。
c4_2_pic01上野先生は、アンドルー・ワイル博士の一連の著書を始め、代替医療関係、精神世界、スピリチュアル関連などの、多くの書物の翻訳を手がけられております。また日本に「自然治癒力」と言う概念を根付かせたり、「ホリスティック医学」という潮流を引き起こした功労者の一人でもあります。私はこの世界に入って、 上野先生が訳された多くの書籍から、実にたくさんの事を学ばせていただきました。今、私がこのように代替医療の世界で活躍出来るのも、骨格矯正と言う身体力学の範疇を超えて視野を拡げながら「身体」を、人間の持つ「治癒力」を、そして生きていく為の「生命力」という根源的な視野で人間を見つめていく事を身に付けることが出来たのも、すべて 上野先生の訳された多くの書籍が無くては、決してあり得なかったと思います。考え方の骨子を学ばせていただいたのです。
私にとっては先生のような存在である上野先生とお会い出来る!
それは夢のような事でした。

そして7月20日、よく晴れた気持ちのいい日に、(株)ノラコーポレーション代表取締役社長、金田郁子さんのお導きにより、伊東のご自宅までお伺いさせていただき、我々代替医療に接点を持っている者にとっては「ご金言」と思えるお話の数々をいただいて来る事が出来ました。

お会いするまでは、ちゃんとお話し出来るだろうか…など、柄にも無く緊張して、いろいろ考えたりしていたのですが、挨拶して二言目くらいからいきなり本題とも言える治癒力の話、そしてワイル博士の話、頭蓋仙骨療法のフルフォード博士の話など、アレよ〜という間に、超レアモノのお話に迄発展していってしまいまして、あいにくその時点ではまだ今回お伺いさせていただいた主旨すらお伝え出来ておらず、よって録音などもちろん出来ていない状況でしたが、私の不躾なお願いにも実に快く承諾していただいて、以降のお話をここにご紹介出来る事になりました。

上記の、イントロダクションのお話を、ここに紹介出来ないのが非常に残念なのですが、しかし社会や時代や民族などから「健康」を読み解いて行くなど、かなりスケールの大きなお話が満載ですから、どうぞお楽しみください!
上野圭一先生
日本ホリスティック医学協会副会長
CAMNet(代替医療利用者ネットワーク)副代表
翻訳家


鈴木登士彦(以下、鈴木):では、改めて今からお願いいたします。
先ほどのお話の続きですが、私は代替医療の基本は生活である、と思っています。

上野圭一先生(以下、上野):そうですね。やはりそもそもそのモデル、健康であるとか、病気であるとかいう「健康」のモデルって一体どこにあるのか? 健康というのは抽象的な概念ではなくて具体的な命のあり方だから、どういうあり方が一番いるに相応しいのか? やはり僕は野生動物とか野生植物だと思うんです。
僕らは野生から離れて人間だけの世界に入ってきた。入ってきたのはいいけど色々矛盾が積み重なって現在のこういう状態、例えば温暖化のように、継続的に地球を壊し続けてきたわけじゃないですか。そうすると、その解決法っていうのはやはりこのあいだの洞爺湖サミットみたいなものではなくて、あそこでは何の解決にもなっていないですね。そうすると本当の意味での緑化の高い生き方は何なのかと考えると、結局は最終的に我々が本来持っていた場所、世界、例えば、身の回りに猿がいたり、というのをもう1回考え直してそちらのほうにできるだけ『体』を近づけてゆく事しかないのではないのかと思うんですよね。
一気に森の中に戻るのはもちろん無理ですけど、ただモデルとしてね。目指すべきモデルとしては、はっきりとそこに焦点を据えていいんじゃないかと思うんですよ。
今最も新しい医療の潮流に「アンチエイジング」があります。世界のアンチエイジング学会を率いているアメリカのアンチエイジングアカデミーなんかの人達の理想像は、アーノルド・シュワルツネッガーなんですね。

鈴木:サイボーグですね。

上野:そう。ああいう風になるんだ、と。年とっても元気で筋肉もモリモリ甦るみたいな。そこに目標をおいて色んなものを飲んだり、切ったり貼ったり刺したりやっているわけですよ。それは、現にすごくお金かけてやっているわけですが、やはり先が見えて来ていますね。今の地球の温暖化と同じで、必ず行き詰まって反動がきて、とんでもない事になる人達、お年寄りが沢山出てくると思う。
だとしたら、やはりもう一つインタラクティブなモデルというのを誰でもが考えるべきではないか。
野に生えている植物とか、野に生きている動物とか虫とかそういうものにモデルを求めて、そこから学んでゆくことがまず重要ではないですかね。
彼らがどういうリズムで生活しているか、どういうものを食べて、どういう風に寝ているのか、そういうことが季節によってどういう風に変わってゆくのか。ということから、人間として学び取れる物は何なのか。
別の言い方で言うと、過去において自分たちの先祖がやってきたことを思い出すというか、想起する。そういったリアリティを思い出してそちらに近づいていくというのかな。
そういう方向性の中に全てのものが含まれていて、それらを含めて、ありとあらゆる人間の知恵が試せるのか?といった時に初めて温暖化というのは結果として防止できる事になるのではないかと思うんですよね。
暑ければすぐ冷房をかけるのではなくて、とりあえず汗をかくとか。寒ければ暖房をつけるのではなくてまず厚着するとか。
それは、まあ、ちょっと前までのライフスタイルじゃないですか。全てそういう風にみんな誰もがやっていた。食べ物も遠い所からくる美味いけど高いものを食べるのではなくて、近所のお百姓さんが作ったものや自分が作ったものを食べる。その土地のものを食べる。結局簡単なことですよね。野生動物がやっていることをする。

鈴木:いま少子化が声高に叫ばれていて、これって日本人は種として衰弱に向かっている証ではないのか?種族としてですね。そう思った時に、安土桃山時代に日本にやってきたヨーロッパ人達の記録には、日本人というのは非常に強いと。当時の欧米人に比べるとずいぶんと強かった。重傷をおっても、骨を折っても、難病になっても驚くべき早さで治ると書かれている文献なんかがかなり有ると思うのですが、同じ日本人なのにずいぶん違っちゃったなと思います。

上野:それは(日本人のほうが)野生に近かったですからね。向こう(欧州人のほう)が先に文明化しちゃったから、先に弱くなっちゃったんだね。その弱い人が見たらすごく強かったんだね。我々が今どこかジャングルの中に入って本当のネイティブの人を見たらきっと驚くよね。

鈴木:本当にそうですよね。僕は治癒力を考えて行く上で、ブラジルがスゴくホットなモデルだと思うんですよね。ブラジルにはまずネイティブとしてのインディオがいて、そこにポルトガル人が来て、スペイン人が来て、労働力としてアフリカ人が連れてこられて。そして日本人が来て、韓国人、中国人が来た。そして多くの人達が何の節操もなく混沌と混血になっていて。そしてそのブラジルの特徴が、人種差別が全くない…。

上野:そうだね。排除しなかったからね。

鈴木:はい。その中で例えば、白人は身体が弱いがブラジル人=インディオの血が入ると体が強い。ナチュラルに筋肉も隆々としているし、なかなか病気をしない、と言われています。 上野先生が今おっしゃっていた野生化のある側面というか。彼らを見ていると、やはりそこが治癒力の原点なのだな、と思いますね。

上野:それは、生き物は人間を含めて自然の中から産まれてきて、自然の中に還ってゆく。宿命的にそういうものだから、自然から離れれば離れるほど弱くなるのはしょうがない事なんですよね。弱いからこそ、それを補うために文明の利器を使っていかなくてはいけない。弱いからこそ車が必要だし、弱いからこそエアコンが必要っていうことになるわけですね。

鈴木:先ほどのお話で、この辺りにお住まいのお年寄りはとても素晴らしい身体をしている。車など使わずに山の下まで平気で買い物に行くけど、とてもじゃないがまね出来ない、とおっしゃっていましたが、東京に住んでいると生活の中で身体を動かさない分、わざわざスポーツクラブなどに行って動かすのが当たり前の生活になって来ています。昔は使用人達が身の回りの世話までやってくれて『お大臣』は何もやらなかった。何もやらないのは『お大臣』の特権だったですね。みんなそうなりたいと永きに渡り想い続けて、現実に夢が叶ってそのような世の中になったわけですが、それと共に『お大臣』のように体まで脆弱になってしまった。
僕は骨格の矯正と言う仕事を通じて、人間は「まず肉体ありき」みたいな感覚を持っています。どこまでも肉体を纏っている限りは肉体のあり方に、例えば崇高な精神などでさえ容易に引きずられてしまうのではないか、と思います。ですがこの大切な肉体がどうしようもなく弱くなって来ていますね。
戦後、それまでの修身や天皇制などの心の軸を失ってしまい、オーム事件で決定的に宗教アレルギーになってしまい、道徳も崩壊して、我々日本人は精神的な支柱というものを全く失ってしまった。その上、コミュニティーという繋がり、例えばご近所付き合いという地域社会も崩壊しているし、戦後のコミュニティーであった会社の終身雇用も崩壊してしまった。生活が豊かになった結果助け合いながら家族でいる必要もなくなってしまった。私達現代人は、どこに立脚して生きていけばいいのか?精神的バックボーンと言うか、生きてゆく根幹が揺らいでしまっている今、健康を求めるということ自体がとても難しいと思うのですが…。

上野:本来健康というのは与えられているものである訳です。地上に生まれているということは、健康だから生まれてきているわけで。例えば魂があるとすれば、それが地上に肉体を持って産まれることすらできないで、どこかでうろついているかもしれない魂なども多々有るのではないかと思いますね。
肉体を持って産まれてきた、ということはすでに健康なわけですよ。本来は健康というのは、与えられたものであり、自分が獲得するものではないと思うんですね。
ましては、お金をだして買うものではないし。与えられているにも関わらず、色々な生活上、人生上の問題、ストレスとか悩み苦しみ、そういう病的な状態になって時に初めて健康というものを意識する。
健康になりたい、とか、戻りたいとか。初めてそこでそういう問題が、問題として出てくる。産まれたままの姿で生きていたら、健康なんですから、別に健康なんて意識しないだろうし。
日本人は”自然”という言葉を明治まで持たなかったんですけど、西洋文明が入ってきて”ネイチャー”とか”ナチュール”という言葉が入ってきて、それを翻訳しなければならない。
”ネイチャー”っていうのはなんて訳せばいいだろう?ということで、翻訳者が苦労して考えたのが”自然”という言葉だったんですね。
それまで何千年もこの国に人が住んでいて、自然と共に生きて、そして健康であって、あまりにも自然が身近にあるから、自然を対象化する、という必要もないから自然という言葉が必要としなかったのですよね。
ただ”自然(じねん)”という言葉は中国からきたからあったんだけど、これはいわゆるその、山とか川とか木とか自然という意味では全くなくて、”自ら”という意味だった。
花が自ら自然に咲くとか、
太陽が自ら射すとか、
夜は自らくるとか、
そういう事が全て”自然(じねん)”なんですよね。名詞ではなくて副詞。
自ら〜する。自ら産まれ、自ら死んでゆく。
そういう時に使われた言葉であって、その言葉を翻訳者は名詞にくっつけたのですよね。だから翻訳家から見ても無理があるのだけど、では他に訳し方があるのか?というと難しかったからしょうがなかった。
今の人は英語のネイチャー、フランス語のナチュール、日本語の自然が同じだと思っているけれど、日本人の精神には、数千年に渡ってそうじゃなかったのですね。いわゆる”自然”というのはなかった。意識しない。意識する必要がなかった。この体も自然だし。そういう意味では人間がそれに変更を加えたりするべき物じゃないという考え方ですね。だから”健康”とかは非常に新しい言葉です。外来語の翻訳になりますね。

鈴木:そうか〜。僕が思うに健康法とは、例えば動物を観察していたり、虫を観察していると、一つの群の中でも強い個体と弱い個体というのがいて、その弱い個体がより健やかに生きていくためのHow toとして健康法というものが必要なのだろうと考えているのですよね。
例えば男性であれば、朝起きて、満員電車に乗って会社に行き、残業して帰ってきて、家庭サービスをして、土日には目一杯遊べて、そのような日々の行事を充分にこなせるだけの当たり前の体力がある群が世代が下がるに従いはっきりと減少して来ている気がします。女性の場合ですと、腰痛や腱鞘炎で赤ちゃんを抱けないとか、母親が娘の肩を揉み過ぎて手を痛くするなど、私達の親の世代からすると信じられないような現象が現在は「あたりまえ」になって来ています。根本は、本来自然からは早い時期に淘汰されてしまったはずの弱い個体が、文明の恩恵により生きながわれ、繁殖を続けてしまった結果である、ということだは思うのですが…。その為に後天的に獲得して行くサムシングが必要なのだと、その為の健康法だと思っているのですが。

上野:あと社会の要請、国家の要請という形もありますね。例えば、明治の頃に「健康」という事が非常に流行ったのは、国が言い出したのですね。様々な富国強兵政策、欧米列強に追いつかなきゃならないからまず、軍隊を作る。しかもちゃんとした軍隊を作らなくちゃならない。そして一人一人の兵士を鍛えなくてはならない。運動もさせて、イザというときに人殺しが出来るような兵士を作らなくてはいけない、となる。
これって国の計画した健康政策ですね。今はそれが兵士の変わりに、サラリーマンというか労働者という階層に向けられている。彼らが働いて経済がなりたってゆくようにしなきゃいかん。ということなのでしょうね。
国の、社会の要請というのは、常に健康を求めるという傾向があるわけですよ。そういう罠というか、一種のトリックにひっかかるというのはおかしいと思いますよ。
そうだとしたら徴兵制度、徴兵試験に落っこちるぐらいの体力のほうがいいと思いますね。そうすれば人殺しをしなくてすむ。
徴兵検査に甲乙丙って段階があって、甲種合格っていって乙種にいばっていたけど、乙は人に顔向けできない、虚弱な人だけど、本当の平和主義で考えると、乙の人が沢山いれば、兵隊は弱くなるし、闘えなくなるし、バランスがとれてくると思います。
今から考えると、欧米列強に追いつけ追い越せ、ということ自体どだい無理だった、と思いますね。
欧米というのは、その歴史の中で自然的に産業革命というのが起こってきたわけで、日本とかアジアには自分たちの力で作った立派なものがあるのに捨ててしまい、欧米列強のいわゆる機械文明を取り入れることが文明化だと思い込んでしまった。
欧米列強に追いつけ追い越せという発想自体が、僕はそれ以降の日本人を苦しめた主な原因だと思います。
日本なら日本の、中国なら中国の数千年の歴史があって、その中に独自の文明があったわけですね。
例えば江戸時代、鎖国していたから食料自給率100%ですよね。そして完全に循環型社会ですね。基本的には健康な主食で。素晴らしい芸術とか装飾品とか、ありとあらゆるクリエイティブな活動とか行っていて、未だに世界中からすごい高値で買われるような版画とか、そういうものを沢山作ってきたわけじゃないですか。これが日本の文明の形なわけですね。実際に循環型持続可能な社会を築いて来ていたわけです。
岩見銀山が、このあいだ世界遺産に登録されましたが、なぜ認定されたかというと、世界中の鉱山というのは、山に金なり銀なり銅なり色々人間に必要なものがあったとすると、どんどん山を崩していって、あとは禿げ山になってしまう訳ですね。よく見苦しい山がありますよね、あれがいわゆる鉱山。だけど江戸時代の岩見銀山というのは世界最大の銀の産出量であるにもかかわらず、木を切ったら必ず植えるという事を最初からやっているわけですね。
だから景観は全く美しいわけです。山が生きているのですね。必要な物だけ取り出すのではなくて、切った分だけ育てるという事を始めからやっているから実に美しい。しかも素晴らしい銀がとれた。そこが認められて世界遺産になったのですね。それはまさしく江戸時代の高度な文明の営みだったわけですが、そういうのを全部捨てちゃって西洋のようになりたいっていうのは、ある種コンプレックスになってしまって、同じような発想でそんな文明を取り入れてそれよりも勝ちたいみたいな…。コンプレックスが動機の政策をとってしまったとこに、我々の負の遺産というのがあると思うのです。でも、そこに気がついてしまえばね、あぁそういうことじゃないんだ、西洋は西洋で自然にそうなったのだし、東洋は東洋の自然的な文化があったのだから、それに戻って、この日本なら日本の土地にあった独特の生活を取り戻してゆけばいいと思える。それを今でいえば「持続可能な循環的社会」であるということじゃないでしょうかね。

鈴木:深いですね…。根源ということになると、社会性だとか、国家とか、やはりそこを抜きに考える事はできないですね…。

上野:抜きにはできないですね。健康だ、とか言ったって、今は地球自体が病気になってきている訳だからね。地球が健康であって、初めてその上に住む動植物達が健康になれるわけで、地球の温度が1℃、2℃狂うだけで砂漠化だとかね、雹がふったりするとか、サイクロンがくるとか、地球の発熱が変わるだけで実際に恐ろしいことになっているわけでしょ?これがあと数℃あがったらどうなるか?というのもCGでシュミレーションしているわけじゃないですか。こういう地球が病気になって熱があるぞっていう時に、それにおかまいなしにそこに住む生き物が健康だのって言っていること自体がおかしいわけです。

鈴木:確かに、そうですね…。

上野:そんなこと言っている場合じゃない。病んでいる星の上に辛うじて生かされていて、その症状は現に確実に現れてきているわけです。我々が健康という時には、我々一人一人の健康。そして家族の、地域の健康、という事…だけではすまなくて、やっぱり地球に対してどうか?という事を常に問われているのが現在だと思っています。今やっていることは、地球の発熱に対して、熱を冷ます方向に行っているのか?それとも熱を上げる方向に行っているのか?そういうことを考えながら行動しなければならない時代にもはや入ってしまっているわけじゃないですか。クローズドの空間でエアコンを入れていくらフィットネスとかやったってそりゃもうナンセンスですね。一歩外でたらこの暑さでしょ? 昔は梅雨明け10日ってね、僕は山をやっていたのですが、山の写真家って梅雨明け宣言が出たとなると、10日間は雨が降らない。ピーカン続きになる事を知っていた。地球が健康だったからサイクルが規則的なわけだね。梅雨があけたらカーンと晴れる。ところがもうそういう状態はないですね。いつ梅雨が明けるかわからない。梅雨明け宣言しても自信がないみたい。すごく湿度は高いじゃないですか。これはやっぱり地球の病状な訳ですよ。なんか発汗がうまくいかないでぐずついているような状態だと思いますね。

鈴木:海もそうですよね。

上野:海の中なんてすごいですよ。東京湾一体は熱帯魚化しちゃって。

鈴木:黒潮に乗って沖縄の方からずっと上がって来る死滅回遊魚というのが死なないんですよね、今は。

上野:そう。世界中にそういう現象が見られる。最初は面白いって思っていたけど、それはむしろ笑えないような状態になってしまっているのですよね。

鈴木:少し前に『アース』という環境映画でシロクマが溺れている映像をやっていましたが、あれも信じられないですね。でも、温かくなったり、氷河期がきたり、というのも自然の営みの一つなんですよね?

上野:自然の営みですが、達観して今回もそうだ、みたいに思ってしまうと…。結局、温暖化ということで大騒ぎして、それに便乗して金儲けしようみたいな人も出てくる。そういうことを繰り返しているんだよ、という意見もあるけど…。今、我々が一番信頼できる科学的なデータの一つにITCCというのがあるけど、ITCCだって人間の予測することだからわからないのですが、世界中の専門家が関わっていて、一番人材を集めて、一番研究費を投入して出した結論ですから、やっぱり耳を傾けないわけにはいかないですね。それを妄信する必要はないけれど、参考にしてね、それ以外に有力なデータが出てくるまではとっかかりにして物を考えていかないといけないですね。

鈴木:マイケル・クライトンの、エコテロリストの推理小説みたいなのを読んですごく面白かったのですが、それでお金を設ける政府の機関とかがいっぱいあるというので、温暖化は実はそうではないというデータもあるっていう…。

上野:だから、そういうのは両方知っていないといけないですね。そのマイケル・クライトンは元々医者だったかもしれないけど、今は単なるベストセラー小説家ですから。面白おかしく書くっていうのが彼の使命で、責任を持った発言ではないですからね。それに振り回されるっていうのはどうかね。面白おかしく書こうと思えば、いくらでも書ける題材ですからね。

鈴木:真夏の海水の温度も実は全然変わってないのに、海面が上昇して島が沈むっていうのをネタに儲けようとする企業がいたり…ですか。

上野:それらの答えが出るのは、しばらく先になりますからね。しかしネガティブな答えがでた後では遅すぎるのですね。マイケル・クライトンに代表されるようなある種の楽観主義者っていうのは、現状どこかで満足しているわけだよね。だから変わってほしくない。そうするとその立場に立っていくらでもニセデータなど出せるわけだ。それには気をつけた方がいいと思いますよ。その人がどういうスタンスにいて、それを言っているかという事を。

鈴木:データの立脚点という事ですね。でも東京にいるとあまり自然のことって考えないけど、こういう自然の中にいるとけっこう現実的に考えますよね。ダメージをうけている自然を持っている後進国の方達からすれば、冗談じゃないっていう感じでしょうね。

上野:そうですよ。アフリカなんかもけっこう大変だしね。確かに途上国、特に南の人達が一番ダメージを被っているわけですからね。

鈴木:ですね。あの『不都合な真実』という映画の中で、Co2濃度と地球の温度の上昇に関するかなり昔からのデータが提示されてあったと思うのですが、それを見たとき昔の古代文明ってなかったのかな?とも思ったんですけど。

上野:昔はあったけど、比較にならないじゃないではないかな?炭素排出量からいうと。

鈴木:もしあったとしたら、エネルギー形態として違うエネルギーを使っていたのではないかと思ったのですが。

上野:それは考えられますよね。炭素に依存しない。化石燃料に依存しないエネルギーね。例えばアトランティスですか?アトランティス伝説なんかによれば、太陽エネルギーに依存していたわけですからね。低炭素世界であった訳です。

鈴木:この9月に与那国島にダイビングに行く予定があって、海底遺跡を見てこようと思っています。発見当初は地理的に伝説のムー大陸では?と騒がれていましたが、あれはなぜもっと良く調べないのでしょうかね? どう見ても人工物にしか見えなくて、この目で一度見てきます。でもそう考えると、ロマンがありますよね。
医術でもそうですよね。昔の例えば古代エジプト時代の外科手術が沢山行われていたっていう穴の空いた頭蓋骨とかあるじゃないですか?当時の外科手術ってどういう形態だったんでしょうかね?

上野:色々あったと思いますけど、一番はっきり言えることは、古代文明にしろ、古代アステカ、インダスにしても彼らは共通していて、現代の医学が考えているように人体は物質であると、分子でできたメカニズムであって、魂とかそういうものは存在しない、という前提のもとに切ったり貼ったりしているのと違って、エジプトとか中南米、アジアの古代医学では魂の構成とか、生まれ変わりとかいうものすべてを含んだ全体として成立した医学の中で、外科という部門があったんですよね。そこが決定的に違うんですよ。

鈴木:それはスゴい!!!そーかーっ!!!本当に凄いですね!!魂としての…スパンが…違いますね。

上野:そう、そのスパンが長い中で例えば、腫瘍ができたから取りましょうみたいな手術は行われていたと思うんですけど。それを今のお医者さん達が、つまり魂の再生とか、生死観を持たない科学者としてのドクター達とかとはずいぶん違うと思う。もちろん受ける側も違うし。そういう生命観、死生観の違いっていうのが前提になるかな。

鈴木:上野先生の著書「聖なる自然治癒力」の中で、フィリピンの心霊治療のことを書いていらっしゃる章がありますが、あれはやはりこう、カミキリムシとか身体から出て来るわけですよね(笑)?

上野:出てきてね(笑)。出てくるんですよ。腕とかからカミキリムシの頭がむくむくっと出てくるわけね。何々〜?って言っていっているうちにズバっと取り出すわけです。取り出す時は傷があるけど瞬間に跡がのこらない。普通そういうのってマジシャン達とか、腕まくりとかしてやるわけですけど、子供のムームーみたいなの着てますしね。どっちかっていうとそういうのに対して疑い深いほうですから”絶対にトリックがあるぞ”みたいにジーッと見てたんですね。でもわかんなかったんですよ(笑)。

鈴木:手品師と一番違うのは、症状がそこで消失するというのがすごいですね。やはり物質化というのはいろいろな意味ですごいですね。受けた側も周りも納得するだろうし。

上野:そうですね。考えらんないですけど。まあ見た物はしょうがないな、と。

鈴木:先程のお話にあった、本来物質としてのこのボディというものがあって、マインドがあったり、スピリチュアルが重なって人体が構成されていて、しかも魂は流転する、という生命観に立つ医学形態は、こういうレベルでの医療になってくるのですね。

上野:だと思いますね。そういう人間の感覚器官というのは、これは科学的に誰でも知っていることですけれど、可視光線の範囲というか、この宇宙全体の、その中である一部分が見える。音もそうですね。全周波数の上下がカットされて人間の耳に届く範囲のみ聞こえてくる。感覚器官っていうのはそのようにリアリティの中の一部の情報だけをとらえて、これが世界だ!と思い込んでいるわけじゃないですか。しかし、ここに飛んでいる蝶々は全然違う周波数のところにいるし、ハチは全然違う周波数のところにいて生活していますよね。そうすると生き物って言うのは、人間はこうだけれども、他の生き物はそうではない。象はこっちのほうが長けている、鯨はこっちとか、いろいろ有る訳ですね。
そうすると彼らが見ている世界というのは僕らが見ている物と全然違うものだということを、ものを見る時の基本として気をつけていないといけないね。
そうすると我々に感知できないというのは、おそらくは、例えばこの虫はこれを見ているとか、この鯨はこれを聞いているぐらいのことはわかれば、少なくとも、これくらいの範囲でものを見るようになるということですね。今見えない、聞こえないけれども、実際にはもっとずっとある訳ですね。それぐらいの広がりのなかで考えたり発想したりしてゆくことが自然を取り戻すっていうことに繋がるね。とっても大事なことだね。そうじゃないと、人間に与えられた感覚器官の世話をするだけの世界に閉じこもっていると、なんていうか狭い世界、節穴の世界をすべてと感じてしまっているだけだもんね。

鈴木:不可視の領域、不可知というかわからない領域に関してもっともっと敏感になる、それが健康に生きるために非常に大切である、ということですね。

上野:だと思いますね。昔、バリでシャーマンみたいな人と話した時に、なんか気に入られちゃってね(笑)。弟子がいないわけですよ。後継者にならないかと言っているわけ。ついでくれる若者がいないもんだからさ。しょうがないから日本人のお前が弟子にならないか?みたいなね。で、どんな修行するんですか?と聞くと、まずね、裏はすごいジャングルなわけね。で、ジャングルの中で一ヶ月ぐらい一人で生活をするんだ、と。

鈴木:なるほど〜。

上野:そうすると、ジャングルには色んな動物とかがいるんだけど、その中で、なんとか食い物を探したり生きていると、今まで見えなかった物が見えたり、聞こえたりするようになるから、そしたら出てこいって。それから教えるっていうんですよ。

鈴木:そうか〜…。なんか…細胞レベルでの自己鍛錬ですね。そーですか。いや、でも、それはすごいですね。例えば、今とても多い鬱病。鬱傾向に陥ると外敵刺激にどんどん無反応になりますよね。それとは対極のテンションを作り上げる訳ですね。

上野:ある意味そうだね。やはりいきなりジャングルは大変かもしれないけど、土の上に裸足で降り立って、子供の頃にしたようにね。それでまあ、ちょっとした畑仕事でも手伝ってもらって、土の上に寝るとか、あるいは川の水につかるとか、そういう、体で、皮膚で、自然を感じる。それでちょっと気持ち悪いなって思っている物が、なんとなく気持ち良く感じて逆転したときに、こっちのほうへクルっとスイッチが切り替わるというか。
いわゆるボディから入っていくのも効果的だというのは言えますね。

鈴木:なるほどね。生きていく力ってことですね。やっぱり生命力っていうのは絵に描いた餅ではなくて、基本的な細胞の力みたいなものですね。

上野:そうそうそう。ボディ、マインド、スピリットというのは、さっきも言ったように言葉の上では別れているけど、折り重なった一つの有り様ですから。どこから行ったっていいんですよ。別にボディに限らずね。いわゆるマニピュレーションにしても環境といわれるものが大事だと思うね。環境っていうのは、つまり自然の中に肉体を満たすっていうかね。

鈴木:本当にそうですね。

上野:知り合いの長井さんという写真家がアイヌの亡くなったおばあちゃんのシャーマンを心のよりどころとしていて、やはりバリのシャーマンと同じ事を言っていましたね。ナガイさんがおばあちゃんに指示されているのは、外で寝ろ、川の水で生活しろ、要するに昔のアイヌの人達が、動物と同じように野外で家もなくて、野外で生きていたころの生活を2週間させられた、と。その生活を2週間しているうちにも、大学病院で匙を投げられていたのがどんどんどんどん…

鈴木:まさに自然治癒力ですよね。なるほどなるほど、そうですよね。

上野:健康っていうのは、さっきも言った通り、日本語の健康はどっちかっていうと英語のヘルスの翻訳だったりしているわけね。もともと日本人は健康という言葉を言っていなかったわけですから。そうすると、「ヘルス(health)」っていうのは、ご存知のように”全体に戻る”っていう意味ですね。「ヒール(heal)癒える」という動詞に「th」がついて”その状態になる”って言うことなので、「health」は「全体という状態」になるということ。
「全体に戻る状態」というのが「病気が癒えた状態」。それが健康という状態、という風に西洋社会ではきちんと定義がなされている。そして「全体」というのは自然を含めた、宇宙をも含めた全体。「全てが一体だった時代」の「太古の記憶」を回復して、それに戻った状態、ということなんですね。西洋のヘルスの意味っていうのはすごくはっきりしているんですけれども、それが明治の日本の政府が健康政策を進めていくときに微妙に、なんていうかなぁ、まぁいわば、姑息な厚労省の役人みたいなのが当時からいますからね、やり口が姑息で、同じヘルスでもある時は保健と訳すんですよ。「保健行政」とかを英訳すると必ず「ヘルス」になってくる。そしてある時は「衛生」と訳す。この「衛生」というのは、英訳のヘルス。外国向けに発信する役所が同じヘルスという言葉を使い分けるわけです。これ実にわかりにくいんですよ。例えば、アメリカの最大の国家機関であるNOH(national objectives of health)というのがありますが、直訳すれば「国立健康研究所」ですよね。そういう風に訳してくれればいいのに「国立衛生研究所」って訳しているんですね。最近になって「国立保健研究所」とかね。まだ「健康研究所」とは訳してない。これにはすごく違和感を持っているんですよね。向こうは国が作った「国立健康研究所」なんですよ。その中に代替医療の研究所もあるのですが、健康を研究する学問、あるいは、健康を推進する行政、研究機関、というのがちゃんと欧米にはあるんですよね。日本の場合には、残念ながらそれらがないんですよ。「国立健康研究所」がない。病気の研究所はいくらでもありますよ。「血圧研究所」とかね。それは非常に問題なんですよ。健康というものを国が本当に学問として考えていない。なんとかして国の、ある時は兵隊として、ある時は労働者として生産性を上げる道具として健康にする、としか考えてなくてね。

鈴木:それはひどい国ですね(笑)

上野:そうですね(笑)。国にとって役に立たない生産者じゃなければあっちいってくれみたいな。そんな国じゃなかったんですよ、江戸時代までは少なくともね。お年寄りを大事にしていたし、今の沖縄みたいに、地域で一番大事にして、何かあったら必ずおじいちゃん、おばあちゃん呼んでやってもらって。おじいちゃんおばあちゃんは誇りを持ってそれが成り立っていたわけじゃないですか。そういう人がいれば、保健制度なんてなくてもいいわけです。江戸時代にはそもそもなかったんですから(笑)。そういう風に考えると、だんだん健康とかなんとか、国が口出ししないほうがいい、と思うんですよね。国民一人一人が自分たちでそれを築いてゆくとか、気がついて作ってゆくというのが、健全でいいんじゃないかな、と思いますね。そういう意味でこういう動きっていうのは大事なんですよね。別に国の補助金をもらっているわけじゃないでしょう?

鈴木:なんか、よりどころがなにもないように感じますが。

上野:ないように見えるけど、まだ何もないってことはないと思うんですよね。だって、さっきも言ったように、一応この体を持って産まれてきたっていうことは、命を与えられているっていうことじゃないですか。まあ健康体とまでは言わないまでも生活のできる体を与えられている。心も与えられている。みんな与えられているじゃないですか。それこそがよりどころじゃないですか。

鈴木:ああそっかー。そうですよね

上野:この与えられたものを、どう使おうか。最後どうやってお返しするのか。そこまで含めて自然ということですからね。そう考えてゆくとよりどころ、というのは与えられていると思いますね。これ以上何を与えられたらいいのかわからないくらいで(笑)。

鈴木:そうかぁ。そうですね。そこですね。一番の自然性、肉体は一番のアイデンティティーですね。

上野:確かに。ホントに喪失してしまったら生きていけるわけないですから。例えば人工的な科学に、あるいはテクノロジーによって守られた人工的な人間の生存環境、一番代表的なのは例えばスペースシャトルなんかですね。あの中で何年も暮らせるわけですよね。だけども、それはそこにいる人間という一人一人の体の中は人工じゃないですよね。自然ですよね。その自然を維持できるような装置をテクノロジーで作ったのがスペースシャトルであって。
誇れるのはやっぱり自然だと思いますね。誰も自分で心臓動かしているわけじゃないし。ただそれを自然と呼んでいなかっただけの話で。

鈴木:それが今は、完全に意識の上でも、生活の上でも分離してしまっている。根本的な問題というのはそこですね。

上野:そこだと思いますね。でもそれは割合、そんなに難しくなく取り戻せると思うんですよね。

鈴木:芝生に寝っころがったり、川につかったりすることによって。

上野:そうそう。けっこう怖い思いとか、危ない思いとか、多少はしてもらわなきゃなんないですよ、それは(笑)。

鈴木:僕はこのストレス社会ですごくいいなと思うのがありまして、バンジージャンプとスカイダイビングがそれなんですけど、自分から飛び降りる自殺の疑似体験っぽくて、ストレスの順位制という観点から見ても、細々したストレスなんて吹っ飛びそうな気がします。

上野:身を任せる、という意味ではね。

鈴木:一つ間違えば、命を奪われる。死んでしまう。たとえフェイクであっても、経験することによってストレス耐性が活性化すると思うんですよね。

上野:あれと同じようなことを僕らはしょっちゅうやっているわけですよ。例えば、どこの学校に入るか、どこの会社に入るかとか、どうやって録音するか、とか、どこに旅に出るかとか。選択肢が一杯あって、そのうち一つを選んでいるわけじゃないですか。どの道を選んだってバンジージャンプと同じで、どうなるか本当にわかんない。一見わかっているように見えるけど、就職したらそのまま一生安泰なんて思っていたらとんでもない話で。先は何がおこるかわかんないじゃないですか。ということはもう、バンジージャンプ以上のリスクを負ったことになると思うんですよ。でも、そのようにして思い切って身をまかせること、この会社にしようとか、この結婚相手に決める…とか、”身を投げる”ということが大切なんですよね。どっかまだこうしがみついて、中途半端にやっているからいけないんだと思う。ぱっと離しちゃえばいい。

鈴木:何事にも腹が決まればそれでいいというね。

上野:そうです。離しちゃえば、なんとかなる。悪いようにはしない。それが宇宙だと思うんです。野生動物なんかもぽーんて飛んでますよね。どこに着くとか、わからないわけですよね。時には何千キロ何万キロと。何の保証もないし、健康保険も何にもないですから。食料があるかどうかもわからない。先に何かあるだろう、ってことでどんどん行っちゃう。それが生きる姿ですよね。中には冬の間に食べ物を貯めておく動物なんかもいますけどね。それもいいですよね。

鈴木:動物ってそれを忘れちゃったりしますからね(笑)。

上野:それでもいい(笑)。

鈴木:うちにもデカイ犬が2匹いるんですけど、犬との生活っていうのはプリミティブでいいですね。朝の4時半には起こされて(笑)。大人になると忘れちゃう雨の匂いとか、木枯らしで落ち葉が吹きだまる事とか、いやでも毎日散歩に行きますから。
アロマの勉強をしていて面白いな、と思ったのですが、みんなコンピューターの前で仕事していて、アロマボトルを引き出しに入れておいて、1時間に1回くらい匂いを嗅ぐ。目をつぶって。そうやって瞬間的にプロバンスに行ったりしている訳です。この嗅覚を刺激する、ということはものすごく現代にマッチしていると思うんですよね。

上野:嗅覚って一番原始的なものでしょ。

鈴木:そうですね。そこの領域っていうのは怒りだったり、泣いて騒いだりとかいう、プリミティブな感情の部分と重なっていますから、社会性が高まって行く程、抑えられてしまいます。仕事中に隣の机で急に泣き叫ばれても少し問題がありますから。しかし匂いでそこを刺激〜興奮させるというのは、程よく脳の階層のバランスが取れると思うんです。アロマってこんなに、色んな意味があったんだなあ、と脳の構造を通じて思いました。

上野:これも、アロマテラピーそのものはヨーロッパからやってきたもので、向こうの植物が多いわけで、それはそれでいいんですけれども、さらにこれから先を意識してゆくためには、従来この列島に住んでいた人達が、この列島でやってきたアロマ的なもの。そこを刺激するようなことを真剣に考えなくてはいけないと思いますね。この列島に住んでいる人達がどんな香りで癒されてきたか、とか。

鈴木:ヒノキ文化というか。

上野:そうですね。それから、そうですね。沈香とか、伽羅とか南洋から来たお香とか。あとその辺のスパイス、薬草とか、ですよね。いわゆる農家になっている木の山椒。向こうには山椒はないんですよね。そういう山椒の香り。それはきわめて日本的なものなんですよね。それを長い間嗅いできましたから、なんらかの効果が絶対にあるに違いないですよね。うなぎにあれがないと物足りないですからね(笑)。あの山椒を加える、っていうのは絶対何かあると思うんですよ。ビジネスになると思います。そういうエッセンシャルオイルとか。そういう事を前から感じているんですけど、なかなかやってくれる人がいないのですよね。
もうそろそろ、欧米から学ぶ段階から、欧米に発信する段階に来ていると思うんですよね。それを、これからの人は積極的にやってもらいたいと思いますね。まだまだ捨てたものじゃないです。この国の自然は残っているし。自然ともっと上手く融合させればお金になるんじゃないですか。沢山の人達にトライして欲しい。やっぱり脳の一番深い所で感じるのは、そういうものだと思うんですよね。音楽療法だって、音楽療法学会とか行ってみるとがっくりくるのは、ほとんどが西洋音楽の、モーツアルトの何番とかなんですよね。もちろんそれでもいいんですけど、それは西洋人の理論であって、日本人の音楽って全然違うものがあるんですよね。そっちのほうにもっともっと力を入れてほしい。日本人の音楽療法って持ってないと思うんですよね。一応西洋から来たものは大事にする、っていう必要はあるかと思うけれど、それを日本特有の繊細なものに仕立て上げる技があるはずなんですよ。我々は持っているんですよ。それをやらないと。ただただありがたがってブランドでね、パリの誰が作ったなんとかだって喜んでいるようじゃ、幼稚な段階だと思うんです。行くべき道はもう見えてるわけですから。

鈴木:カラダ的にそうですね。先ほどおっしゃっていたように、西洋の価値観に何から何まで変革してゆくのは無理がある。急激にそういうものの価値観に変革していったので、身体システムがそれに対応出来ていない。

上野:無理があるんですよね。やっていて美しくないものね。本当にバランスがとれたものっていうのは、美しいからね。日本の伝統文化をやっている人達って所作から何から美しいもの。決まっているし。隙がないじゃないですか。頭の先からつま先まで決まっている。大工さんなんか見ていても、昔から大工さんがやっている格好とか、所作って、美しいわけね。やっぱ由来のものは、そこまで仕立て上げてきた、飛鳥時代からずっとそうやってきたわけですから。

鈴木:そうですねー。でも、今さら生活様式一つ元に戻るっていうのに抵抗がありますけど。

上野:戻るんじゃなくて、先があるんですよね。

鈴木:先がある…ジャパネスクみたいな。そういう西洋の価値観を取り入れた「新日本式」みたいな価値観でしょうか。

上野:一度海外へ出ないと日本の事がわかんないとか、よく言うじゃないですか。それはもう、ヨーロッパの人もアジアにしばらく来て、そしてヨーロッパのニュアンスがわかったわけで。みんなそうだったんですよね。

鈴木:ちょっと離れてみることで自らが明らかになりますね。

上野:だから、戻るんじゃなくて先があるのだと思う。博物館の中をいくら探したってあんまり役に立たないと思うんですよね。参考にはなるけど。参考程度。やっぱり今生きている中で探していかないと。

鈴木:もともと自然との共存っていうのが、得意だった民族ですしね。

上野:得意ですよ。得意というか、「自然との共存」も新しい言葉ですよ。もともと一体だから。自然との共存なんて意識する物じゃないんですよ。それほど自然だったんですよ。僕は言葉で飯を食っていますから、言葉に対しては敏感なんですよ。少なくとも英語と日本語という全く違う言語体系の擦り合わせをしょっちゅうやっていますからね。英語を母国語としている人が世界にどのぐらいいるのかって、逆にそこから照らして日本語を母国語にしている人間が世界にどのぐらいいるのか、と両方こう、見るのが仕事ですから、一つの言葉に対して二つの物の見方をするという、癖がついちゃっているんですよ。その狭間をずっと生きてきましたから。なんかわかんない事があると、一端行き詰まったら、こっちから見たらどうなるか、とそういう複眼的な物の見方をする習慣がついちゃっているんですよね。だからこういう事が何時頃産まれたのか、とか、そういう事を調べてゆくとわかるんですよね。本当に古い、それこそ大和言葉、縄文の頃から使っていた言葉がまだ残っているし、奈良時代に使っていた言葉、明治、幕末に使っていた言葉、そういう言葉の寿命を維持することによってその言葉の力って違うと思うんですね。古い言葉ほどそれこそ脳の回路に眠っている何かを知ることができるんですよね。

鈴木:よく、「身言葉(みことば)」っていうのでしょうか?日本語には体であらわす言葉が多いように思います。あれもやはり、本来は日常の中で身体感覚に敏感な民族だった名残なのでしょうか?

上野:すごく多いですね。どこの国でもある程度はありますけど、日本語は身言葉が特に多い国のひとつでしょうね。
僕の友達の精神科医がいて、昔ですけど、日航のジャンボ機の墜落事件があった時に、片桐さん(機長)の精神鑑定をやったんですよ。片桐機長が墜落する直前に残したテープを聞くと、最後に逆噴射する時に「いねー!」って絶叫するんですよ。片桐さんはお幾つなのか、もう忘れちゃったけれど、普段は、日常生活の中で「いねー」という言葉を使うような環境では育っていないはずなんですよ。にもかかわらず、肝心要の最後の時に、完全なパニックになった時に「いねー」って。彼(友人)が色々と考えて、「いねー」というのは古代の日本語で「死ね」って事らしいんですけど。もうどうでもいいってなった時に、「死んじまえ」っていう現代語ではなく「いねー」っていう古代語が出てきたっていうのが、一番意識の深いところが刺激されて、それが言葉なって出てきたんじゃないかと。

鈴木:それはDNAレベルでインプットされているんでしょうかね?

上野:そうらしいですよ。普段、そういうものは記憶に浮上しないんですけれども、やはり特殊な状態になった時に、よく”いげん(?)”っていうじゃないですか、突然こう、乗り移ったとか、日本語じゃないものをべらべらしゃべったりとか、そういう状態があるらしですね。

鈴木:憑異現象とは違って、内側からアウトプットされる訳ですね?

上野:わかりませんけどね。要するに、その人の限られた現世だけではなくて、過去生っていうか、あるいはそういう人類の共通の意識層と言うかそこに蓄積されていたものだろうね。

鈴木:昔、上野先生が訳されていたキューブラー・ロスの本や、前世療法に関する本などを読んだ時、ものすごい衝撃を受けて、その後生まれ変わりや前世についての本を読みあさっていた時期がありました。縁があってサンタフェに住んでいる友人のカウンセラーから実際に何度か前世療法を受けてみたり、大脳生理学にハマってみたりして、いろいろ〜ありまして、結局いまの僕は、やはり死んでみなければあの世のことはわからないな、と思っています。

上野:そうですね。死んでみなきゃわかんないですよね。

鈴木:上野先生は種の起原とかどう思われます?飛来説ですとか、そういうのはどうでしょう?

上野:そういうのはわかんないですね。どうでもいいと思っていますけどね。

鈴木:よくあの世というのは、大気圏なんじゃないか?ということもありますが、これは尽きないですね〜。

上野:そうでうすね。何とでも言える世界だし。まあ一種の、楽しみですよね。あの非常に科学的な思考が得意な立花隆さんすら、やはりわからないって、一番最後にそう書いているものね。実際死んでみなければ。彼も最初は疑ってかかっている。脳の異常の産物じゃないかとか。色んなデータを集めても、最後にはわからないって。

鈴木:そうですよね。

上野:何も調べずに、何も深く考えずに否定したり肯定したりていうのはどうですかね。そういう事っていうのは、健康にもすごく関係あるんですよね。ホントにベースになっている。

鈴木:確かにそうですよね!現世のみなのか?輪廻があるのか?それが有る無しで全く違ってきますからね。

上野:そういう調査はあるんですよね。つまり、来世があるという風に思い当たる人と、そんなものあるわけないと思っている人の2種類にわけられますよね。アメリカの調査機関がずっとそういう人達をリサーチして健康度を調査したら、明らかに前者の方が健康度が高いわけですよね。当然ですよね。だってまだ先があると思っているから。そう思っている間は人間は健康なんですよ。絶望していて、お先真っ暗何にもない、という虚無に入った時に、健康を失う。しょうがないですねそれは。その信念が健康を形成するっていうのは当然の事だと思いますよ。ほとんどの人間の信念というのは、アマゾンのネイティブであろうと、普通の人だろうと、全く一緒だと思うんですよね。人類の思考パターンとして。つまり古代社会から一貫して霊魂とかが存在しないとか、物質とか存在しないとか、考えている人は全くいなかったわけではなくて、本当に変わり者のごく少数の人であって。大多数はそういう信念を持ちながら生きてきたわけです。近代になって初めてそういう思想がゆらいで、最終結論を科学的に委ねてしまい、そういう伝統が途切れているかと思ったら、変な形で「オーラの泉」とかマスメディアから出てきちゃって。あれはあれで、僕はあんまり健全な感じを受けないですけれどもね。

鈴木:そうですよね。例えば、伝統医療と言われているものは必ず生死観というものを合わせ持っていますよね。そしてそれに伴う、例えば宗医同道じゃないですけど、民族の宗教と医療というのが表裏一体を成しているというか…

上野:もともとシャーマニズムっていうのは、いわゆる国の医療の源をたどっているようなもので。医者であると同時に神官ですね。

鈴木:そうですよね。魂を取り扱う人っていうか。

上野:デカルト医療の二元論、彼が招いた結果がこの状態。根源をたどればそこだと思うんですよ。結局ほら、神様が見ているとか、仏様が見ているとか、人が見てなくても、そういう普遍的なものの存在を常に感じ取る、だからこそエゴイズムの極地みたいなことには、歯止めがかかっていたわけですよね。誰も見ていないからコレ盗んでやろう、みたいなことはするかもしれないけれど、もっとひどい事が今は平気で起こっている。とてつもなく大きなもの、例えば宇宙と繋がるようなことを日常で生活していれば、そこにスイッチを入れようとすると…

鈴木:そこにストッパーが働くというか。

上野:そうそう。そういうことできたから今まで50万年ぐらい生きてこられたんだと思うんですよね。

鈴木:天が見ているとか、己はごまかせないとか、判断基準を普遍的な大いなる処におく行動原理みたいなもの、個人的に大好きです。先程お伺いした、心霊手術じゃないですけれども、シャーマニックな癒しが、実は物質的肉体だけでなくて魂レベルまでを視野に入れた外科手術が行われていたということが、とても衝撃でした。
スコーンって腑に落ちた部分がありまして。あぁそうだったんだなと、ホントに衝撃でした。経絡などのエネルギー系の治療を考える時、閉鎖系の肉体から外部へ飛び出して環境との係わりの中で捉えて行くといいとか、あの辺までいけるとか、自分の中に経験値であるのですが、そんなものではなくて、時空を超えてと言うか、輪廻をも、それすらも含んでいて、当時の医学形態は非常に高度に発達していた可能性がありますよね。ですがデカルトが二元論的に魂と肉体を分離してしまって、物質的な観点から見るととても発達はして来ているけど、どうなんでしょうか?発達しているのかな?

上野:デカルト自身はかなり敬虔なキリスト教徒で。デカルト個人は物事を考えてゆくための方法として、それまで一体だった、肉体と精神をとりあえず基本的に切り離して考えるということを提唱したわけですよね。否定したわけではなくて、方法として切り離した方が、それぞれの道にとってより深く研究ができるぞ、っていうことを彼は言ったんですよ。だからデカルトの本当に考えていたことをそのまま後世の人がきちっと守ってくれていれば、こうはならなかった。デカルトが無神論者であって、科学的な人だったら別ですけど、そうじゃなかったですから。彼自身はかなり敬虔なキリスト教徒であって。そういう手紙なんかも沢山残っていますし。

鈴木:当時のキリスト教会の歪んだ存在だとか、悪しき宗教から民主を救うんだという意味合いでの宗教との分離があって、それが歪曲して歪曲して、現在に発展してしまっているっていう感じがしますよね。

上野:それはその通りですね。キリスト教に限らず、ユダヤ教、イスラム教もそうなんですけれど、一神教っていうのは非常に問題がありますね。

鈴木:問題ですね。一神教って、もう、ダメですね(笑)。

上野:ダメですね(笑)。やっぱり。恐ろしいですよ。コナン・ドイルの「心霊学」っていう本があるんですよ、新潮新書。面白いですよ、おすすめしますよ。コナン・ドイルはシャーロック・ホームズを書いた人なんだけど、ホームズを若い頃に書いて、すごい印税が入って、その印税をつぎ込んで後半生はスピリチュアルな研究をしたんですよ。それが翻訳されています。新潮社。これ、いい翻訳なんですよ。すばらしいですよ。コナン・ドイルならではのユーモアもあるし、彼はイギリス人としてクリスチャンの一人として、いかに罪深いか、っていうのをきちんと書いていますよ。当時、コナン・ドイルの頃のイギリスではスピリチュアリズムの全盛期で、いわゆる降霊術みたいなものもしょっちゅうあって、パーティーに行くんです。最初はトリックを見破ってやろう、という気持ちで行くんですけれども、どうもそうでもない、と、入り込んで、最後はものすごくのめり込むんですよ。英国心霊学協会の理事なんかもやって。それで30年ぐらいスピリチュアリズムを追って、結局これを書くんですよね。

鈴木:カントもそうですよね。

上野:そうそうそう。カントもそうですね。ニュートンもそうですね。ニュートンはあの、「万有引力の法則」を書いたのは20代で、80代まで生きますからね。40代から後半は、すごい神秘家ですよ、彼は。

鈴木:そこの領域にはまると出て来れなくなりそうですね。

上野:ニュートンの神秘学っていうのはほとんど無視されて、日本でも長らく翻訳がでなかったんだけれども、一つだけ、あるんですよね。沢山著作があるんですけれども。

鈴木:そうですか…。神秘学もですが、伝統医療の合わせ持つ生死観っていうのは、やはり実に大きいですね。う〜ん、考えさせられるなぁ〜。死をきちんと見つめて行かないと、生がぼけてしまいますよね。う〜ん、いかに生きるかしか考えていなかったな。

上野:代替医療って日本でもようやく言うようになったのは、いいんだけど、代替医療のベースになっている人間観とか、自然観とかそういったもの抜きに、方法論とか技術論みたいなところで言われているのが、非常に残念なことなんだけどね。

鈴木:どうしたらいいと思います?これからその、例えば、道徳も崩壊してしまいましたし、家庭内での教育もおぼつかない。学校もあまり機能していない。宗教が持てない。じゃあ、具体的にどうしたらいいだろう?と。僕は徹底的な生活の見直しを行っていくと、いうことがまず、これからの代替医療でまずできることであろう、と思うんです。

上野:そうですね。さっきおっしゃった自然治癒力っていうのは、生命力のことなんですよ。生命力の水準が下がってきているのを、少しずつ高めてゆく、命の力を高めてゆく、そういう事だと思うんですよ。

鈴木:そうですね。非常にさきほどシンプルに、ねっころがればいいんだと、川につかればいいんだ、と。まずこれですね。これまさしくその通りですね。

上野:それは、人工的なプールとかじゃだめなんですよ。この地面の下はずっとつながっていて、色んな層を成して、中には高温のエネルギーがあって、そのエネルギーがこういう自然を育てているわけじゃないですか。こういうことから、また地面をふさいじゃだめなんですよ。

鈴木:アマゾンによく行かれる方が数ヶ月ぶりに向こうに行って、森の中で寝て一日目起きた時からすごく元気になっていると言っているんですが、やはりそういうことですね。アマゾンに限らずバリ島とか、沖縄とか、紀伊半島ですとか、ものすごい生命が密にいるところというのは、生命素というのが満ちあふれているみたいに感じるんですよね。そこには精霊とか、色々なものが普通にいるだろうと思います。

上野:そりゃそうですよ。巨木があるとかね、木があれだけ育つっていうのは、やっぱり生命素があるからで。濃度が濃いからであって、そうでなければあんなに育たないですよ。

鈴木:そうですよね。もう一つ視野を広げる、可視領域を広げるっていうのもそれは、細胞レベルで生命素を満たすっていうことですよね。

上野:そういうのを獲得するための一種の技法としてね、瞑想とか太極拳をやるとかヨガやるとか、っていう一種のテクノロジーが発展してきたわけじゃないですか。何のためにあれをやってんのかっていうと、そういう自分を回復するため。昔から、遠い過去においてそうだったように、手っ取り早く回復させるために必要だからやってきたんだと思うんですよね。

鈴木:本来は瞑想する横をトラが通っていったりとか、太極拳やっている横を熊が通っていったりとかしていたんでしょうね、きっと。今、ツリーハウスって木の上に家を作る、それを作ってもいいよ、という権利を売っている会社がとても儲かっているそうなんですよね。それもいいでしょうね。木の上で生活するって言うのも。

上野:ここなんか、ツリーハウスみたいなもんですから(笑)。けっこう怖いですよ、台風の時なんか。もうだめかな〜、なんて思うくらいすごいですね。

鈴木:今度、与那国に行くのに、9月はちょうど台風シーズンで、向こうの方に”台風はひどいですか?”って聞いたら”ものすごいですよ〜”って。風速50mになると、物が縦に飛んでくるんじゃなくて、横に飛んでくるらしいんです。五寸釘でも横に飛んでくる。どうしてわかるかっていうと、飛んできた五寸釘が家とかに刺さっているからわかるらしくて(笑)

上野:いいなあ、与那国にいくのか。

鈴木:気候とか、ほとんど台湾でしょうねえ

上野:そうだねえ。あの沖縄の音楽もすばらしいですね

鈴木:すばらしいですね。僕はあのチャンプルー文化っていうのが大好きなんですけど。縄文チックといいますか。どうしてかわかりませんが縄文っていうキーワードに引かれるんですよね。

上野:そうですよ。さっきからお話ししているのは、縄文人のライフスタイルから学ぼうということですし。

鈴木:やっぱりそうですか!3年程前に知床半島を野生の熊が見たくてずっと回っていまして、ここはいいとこだなあ、と思って車を降りてたたずんでいると、そこに必ずアイヌの祭壇とかがありまして…。結局アイヌの聖地を尋ねるような旅になってしまい、帰宅後にアイヌの精霊に呼ばれたんだなぁって思いました。

上野:僕のと共通しているでしょ?すごく。自分がその、なんかこう、デザインのセンスとか、なんていうのかな、一番気性なところが、これはアイヌだなって。色使いは違うんだけど、あれが縄文のセンスなんだよ。

鈴木:あの頃って、木と話せたんでしょうね。

上野:だと思います。当然そうだと思いますよ。で、今でもそういう人いるんですよね。そういう人はいるし。僕もそうならないと。

鈴木:夢のような…。

上野:まだですけど。

鈴木:芹沢光治良さんが、木と話す、と書いてらっしゃいましたね。

上野:芹沢さんが書いたシリーズがありますよね。晩年に書いた。あの中に出てくる何とか青年っているじゃないですか。

鈴木:伊藤青年?

上野:そう、伊藤青年。今でもいるんですよ。僕は何度か会いましたね。面白いですよ。今はなんかね、人が集まってきて、なんかやっているみたいですよ。詩を書いたりしてそれを時々コンサート開いて唄っているらしいよ。そういう人特有の臭さというか、そういうのがなくて。すべてを笑いの中に修めるって言うのかな。すごくいい人ですよ。本物だと思いましたよ。

鈴木:最後になんか、縄文人というキーワードが…。僕、ものすごい心が動くんですよね。縄文の…

上野:わかります。それはやっぱり、体の中にそういう要素があるんでしょうね。今は眠っているんだけど。それが目覚めちゃうんですよね。ある共通の波動があると。誰の中にもきっとあると思うんですよね。

鈴木:平和でしたよね。何万年も。草木動物、命あるものが全部同等だし。

上野:そうですね。その縄文人のスピリットみたいなものを甦らせるような今風のシステムみたいなものが、沢山あるんだと思うんですよね。僕自身が”俺は今縄文人の感覚になっている”って思ったことは何度かありますけど。

鈴木:どんな時にそうなりますか?

上野:色んな時ですね。こういう風に森の奥深くに入っていったり。道に迷っちゃって、遭難するぞ、っていうある種の緊張感っていうんですか?そういう気持ちになって、そこから抜け出して、もうどうでもいいや。どうにかなる、と腹を決めた瞬間に、急にぱあっとそれまで聞こえなかった音が聞こえてくる。これが木の声じゃないか、となんとなくわかったり。それとか、様々なタイプの呼吸を何時間もやってそうなったこともあるし、色んなケースがありますけど、到達する境地は似ているんですよ。まず、聴力がすごく良くなります。普段の何倍も。こう、研ぎすまされて、もっと遠くの物音が聞こえてくるような。人によって感覚は違うみたいですが、僕は聴力でわかるんですよ。突然ある瞬間から聴力が何倍も良くなる。ああ来た!という感じで。

鈴木:自分がどんどん希薄化していくような…

上野:そうですね。だからよく、小鳥と話せる人とかいるけどあながちわからないわけでもない。虫もそうですね。特に蝶々なんかはしきりに何かを言っているような気がして、ついていくと、何かあったりね。

鈴木:わたしは施術をしている時にすごくそれを感じるんですよ。

上野:それもありますよ。もう、こうやっている状態がもう、自分がやっているんじゃないっていうか。気の流れがすごく良く、まわってるなっていうか。

鈴木:背中がこう、開いてゆくイメージっていうのがあるんですよね。ぐーっと開いていく感じなんですよ。

上野:面白いですね。それは多分ね、日本人が、いわゆる荒魂から和魂に移った考えだと思うんですね、昔の人がいう。荒魂、和魂、幸魂…ですか?普段は、肉体であるという荒魂状態であると。それから意識の色々な情報をやり取りしながら、変わった時にすっとこう多分、荒魂と和魂の関係は和魂の身長のおへそぐらいが、荒魂の頭なんですよね。倍ぐらいの。それはもちろん波動ですから、目には見えないけど、でもそうやって、例えば滝行なんかする。がんがんがんがん。だいたい滝行っていうのはこの上から水圧がすごいから意識を常にこう、上に向かっていないと倒れちゃったりする。しっかり上へ上へと意識を持っていくわけです。そうするとすぽーんと抜けて、上から自分を見るという、いわゆる体外離脱が起こるわけですね。で、離脱した状態で最初に乗り移った体っていうのは、和魂の状態。ということらしいんですよ。さらに進むと幸魂状態になる。そして最後に奇魂になる、それはすごく大きくなって、自分の体を見下ろしているというか…。そうなった時に、到達する、と話に聞いた事がありますね。

鈴木:すごいですね。こういう話が伝えられているっていうことはある種、行を積んでいる方にとって普遍的な感覚っていうことでしょうね。

上野:そうでしょうね。そういう風に言葉で定義されているっていうことは、相当な文化であるっていうことですからね。

鈴木:すごいですよね。人間って面白いですね。

上野:そう考えると、なにも荒魂を肉体の中に閉じ込めて、自分っていうのは皮膚の内側だけで、外側は自分じゃなくて環境だ、みたいなちっちゃい所で生きていると、すごくもったいないと思うんですね。本来そういうのは、最初にあったのはくし魂であって、その波動が少しわるくなって、それが、最終的に物質化して荒魂になってゆくというストーリーだと思うんですよね。

鈴木:面白いですね。でも本当にそうですよね。例えばあの、チベットのルン、エネルギーで人格を作るとか、全部一緒ですよね。

上野:そうですね。エジプトから中国から全部一緒ですね。

鈴木:アフリカとかエジプトとかも共通していますか?

上野:3年ぐらいね、大阪の万博跡地にある民族博物館、そこでドラッグ文化の共同研究をやっているんですよ。日本にそういう研究をしている人が20人くらいいてね。今のその研究の仕方が面白くて、昔は研究者が外から観察するっていうのがお決まりの形だったのですが、今はそういう時代は過ぎて、中に入らないとだめなんですよ。同じものを食べて、同じ所に寝て、同じように生活をして、彼らが連綿と何を感じているのかを自分の内面で知る。という方法をとっていくんですね。アジアとか中南米とかでね。女性が半分くらいいて、国立の機関ですから国の税金で交通費を頂いて(笑)。
そこの武井先生というのは、もうお付き合いも長いんですけど、もともと東大の医学部の医者で、東大病院とかに行っていたんだけど、虚しくなっちゃって、たまたまワイル博士の「太陽と月の結婚」を読んだらしくって、医学を捨てちゃって、文化人類学に入りなおしたんです。年は上なんだけど上田紀行君と同級生になって一緒に勉強して。塩をまいて清めたり。面白かったですよ。本になっていますよ「サイケデリックスと文化」。
僕は研究者じゃないんですけどね。なぜか武井さんと親しくて、毎回研究会に参加していました。

鈴木:そうですか〜。なんか上野先生が当時アメリカに行かれた頃に東方見聞じゃないですけど、こう〜やりながら、インドにいって、アメリカに戻ってきて、そういう人たちがコンピューターを作って。

上野:そうなんですよね。

鈴木:かいま見た変性意識を具現化した。

上野:いかにもそうですよね。

鈴木:PCって脳の階層的構造と一緒ですものね。いや〜面白いですね。ずいぶん面白いことを色々なさっているんですね。

上野:不思議なもんでね。昔バークレーという街に住んでいて、そこで流行った話があるんですけど、西洋の街って城壁があるじゃないですか。その城壁の外へ出ていた3人の男が夜になって、城壁(門)が閉まってしまって入れなくなってしまった。

〜 〜 〜
良く出来た話だなあ、と思って。それぞれの特徴が良く出ている。

鈴木:面白いですね。でも、オランダなんてかなり進んでますよね。

上野:一番進んでいますね。世界でね。スクールはどちらに?

鈴木:学芸大学です。お時間があれば、ぜひ一度…。

上野:いいですよ。先ほどもお話しましたが、それこそ縄文の方法を考え出して、少しずつ形にしてゆく、というのを心がけられたらいかがですか。縄文と名付ける必要はないですが。きっとあると思うんですよ。整体でも。

鈴木:そうですね。色々自分が感銘をうける方とお会いしてお話してゆくと、やっぱり最後は縄文に…。

上野:僕もそう思いますよ。それを多方面に渡って実践できたら、これは大変な事だと思います。なんとかお互い、同じ方向を向いてあるんであれば、時々連絡をとりあって…

鈴木:ありがとうございます。
本当に今日はありがとうございました。

上野:いいえ。

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