今回は、若松美黄先生をご紹介させていただきます。
若松先生は、日本のコンテンポラリーダンスの草分け的存在で、1968年に若松美黄・津田郁子自由ダンススタジオを開設以来、現在迄継続して新作上演を行っておられます。
また今回お導きいただきました小山佳予子先生は、ご自身がバレリーナとしてご活躍、そして「比較舞踊論」などを研究されています。
体の正しい使い方、あり方はどのようなものであるのか?根源的であり、そして究極の身体運動である舞踊。今回はお二人の先生にとても貴重なお話をいただくことが出来ました。私達、手技療法家にとっても、人間を見て行く上で大変勉強となるキーワードが散りばめられていますので、じっくりとご覧ください!
若松 美黄先生
筑波大学名誉教授
日本女子体育大学名誉教授
1999年:紫綬褒章受章
コンテンポラリーダンスの草分け的存在で、
70歳を超える現在も現役の男性ダンサーとして活躍中。
小山 佳予子先生
日本女子体育大学准教授
松山バレエ団員であり、松山バレエ学校次席副校長
アメリカ/フィラデルフィアの大学University of ArtsのGuest Teacher
専門分野は「クラシックバレエ」「比較舞踊論」
鈴木登士彦(以下、鈴木):私が行っております自然手技療法というのは、別名「構造医学」「形の医学」と申しまして、体を一つの構造物としてとらえて、力学的に「形」を整えてゆくことにより「内部環境」を変革していこうとする代替医療なのですが、では“正しい体”とはどういうことか、“正しい体の使い方”とはどういったことになるのか、という疑問が出てきます。造物として体を見た場合の正しいあり方というのは、正中線に対して左右が均等であり、側面から見て耳〜肩峰〜肘〜大腿骨頭〜膝〜外踝が垂直軸を取っていることが、正しい指標となります。
ですが、人の体は常に前後左右に揺れ動いているので、この正しい立位ポジションというのは瞬間的なものとなる、という何ともわかりづらい事になってしまうのですが、本日、先生にお話をお伺いさせていただこうと思ったのは、実際に体を動かして行く中で、正しい体の使い方、バランスの取り方、など一番合理的な体の動かし方について教えていただこうと参った次第です。
若松美黄先生(以下、若松):難しいねえ(笑)。
鈴木:申し訳ありません(笑)。
若松:昔、カイロプラクティックが登場して、曲がっている所をまっすぐにしたほうが良いんだというのが流行って。でも、何年かしてみると、曲がっている人も沢山いるし、そういう人はその状態で内臓機構も移動しちゃっているわけだから、果たしてそれをまっすぐ正しくする事がいいか悪いかの問題がでてきた。最初のうちは何でも(まっすぐに)治す、みたいな流れだったのが少し変わってきて、どうも、治すことで、逆に内臓に負荷がかかってきたりすることもあって、簡単にはいかないよな、というのがありましたよね。曲がっちゃったら人生おしまいか、というわけじゃないし(笑)。ですから、正しい姿勢、というのも多様性があって、状況にあわせて探してゆくっていうか。一人ずつどっか違っているものなんだ、というのを最初に言わせてください。
ダンスの世界でも今の話にちょっと接点がありまして、プロで踊りをやっている人は、左右バランスだとか、運動可動性という意味では少しでもニュートラルな、左右対称なほうがいいわけなんですね。とはいえ、現実に二十何歳ぐらいになっていて、もう曲がった姿勢の状態で内臓が出来上がっている人もいるわけです。そこを全員まっすぐにすればいいのか?というのも課題なんですよね。
最初は僕らもみんな「左右均等に」と教わりましたし、学生にはそう言うんだけど、でもそのうちにね、学生の中には右側に回るのが上手いけど、左側に回るのは下手っていうのもいるわけですよ。一生懸命左回りを教えようとした時期もあるの。でもある時からあきらめてね。もう、その人は右しか使わない!そうすると、どういう違いが出てくるか、というと「自分が得意なほうが伸びる」というのと「欠陥を矯正する」という、抽象化するとこういう概念なわけですよ。
それでどうかというと、欠陥を矯正する方が伸びが悪い。「上手いね」とおだてられて得意なほうを得意になってやっていると、別な部分もどんどん発展する。理屈としては右も左も均等にできればいいに決まっているんだけど、結局、褒められた方はあれもこれも!と意欲的になってくる。そこにはモチベーションが変わるんだよね。
鈴木:よく言われる長所進展法という事ですね。
若松:そうそう。だから一概に「治すのがいい」と言えない時期もあってずっと悩んでいてね。ヨーロッパやアメリカなんかでも、得意なほうばかりでやっているんですよね。だから、さっき言ったように「出来なくてもいいや」という感じで使っている。外国では「左まわりができれば、右はいいや」みたいなのが平気で通っている。非常に不思議なんですよ。だから今言ったように、体って一概に言えないっていうね(笑)。というのが前置きっていうかね。こんな風に話したり、原稿を書いたりする時も一番考えるのは、読む人は個人で自分の事だと思って読んでしまいますからね。だから、一概にはいえませんよ、っという部分に神経を使わないと。やっぱり、個人差はすごいですからね。
鈴木:なるほどそうですよね。顔形が違うように、体も一人一人にほんとうに特色が有りますよね。
話が少し前に戻りますが、先生がおっしゃっていた通りに「まっすぐがいいし、整っているほうがいい」というのは机上の空論なんですね。
私達が体の矯正を行っていく上で、体の持つ「平衡性、可動性、強弱性」という3つのカテゴリーバランスを重視しているのですが、この「まっすぐにする」、体のバランス=平衡性という部分をもう少し詳しく見て行くと、まず内臓の配置や質量が左右で違う。利き腕と重心足などの運動時の差異が幼少期から有る。利き腕が有るという事は、重たい物は反対側の腕で持つようになるから筋肉の発達具合に左右差が生じる。常に体重を支える重心足が有るという事は、骨盤の関節を始め諸関節機構に左右差が生じる。などの後天的に構造形態にも差異を生じさせます。またこれも先天的か後天的なのか本当のところはよくわからないですが、骨の長さや太さも左右で同じではない。言ってみると体ってバラバラなんです。
ですが矯正していく指標として平衡性=前後、左右のバランスを重要視しているという事なんですね。
しかしこの平衡性を中心に体の矯正を組み立てて行くのは幼少期から30歳くらい迄で、中高年から老年期に行くにしたがい可動性=体の弾力性を回復させて行く事が、骨格矯正の主軸となっていきます。
真っすぐであるに越した事はないのですが、たとえ曲がっていても体が強くて(強弱性)弾力が充分に有れば、それはそれで素晴らしい体であると考えています。
自然手技療法では、この3つのバランスを個体の特性を踏まえながら少しずつ拡張していく方向へ持って行こうじゃないかと考えております。
そのような事を踏まえて、「個体差がある」という事を少し掘り下げて行きたいのですが、例えば体を鍛えようと思ってベンチプレスのような単純な反復運動を行った場合でも、ある人は胸の筋肉を使って挙げるし、ある人は腕の筋肉を使ってやる。またある人は背中の筋肉で挙げようとする。そこに「学習」というものが入っていないと、それぞれが得意とする部位を使いながら好き勝手に、バラバラな動きを行っているのが普通です。
それはある種目、競技において使用する部位が決まっているという事ではなくて、個体差、自分の使いやすい所とそうでないところがはっきりとわかれてしまう、という事です。
ではなぜはっきりわかれてしまうというのか?と考えて行くと、例えば、手のひらと手の甲だったら、ほとんどの人が手のひらのほうが認識しやすい。お腹と背中だったら、お腹のほうが認識しやすい。体というのは誰でも均等に認識出来ている物ではなくて、「意識の分布図」とでもいうのでしょうか?ちょうどホルスタインの模様のように、はっきりと意識しやすい部位とそうで無い部位とが明確に示されている。それを自然手技療法では、体に投影された意識「身体の意識/ボディコンシャスネス」という言葉を使って考えています。
これは従事している競技によって、例えばゴルファーにはゴルファーとしての身体意識が発達してきます。野球の投手は投手の、上肢を使う身体意識が発達します。運動時の意識形態が一番バランスよく体に投影されているというのはやはりダンサーなんじゃないか、と思いまして、本日、舞踊家である先生にこのようなこと、体に投影された意識「身体意識/ボディコンシャスネス」という事をお伺いしたい、と思って参った次第です。
先生の身体意識といいますか、どのように訓練してゆくのか、など、私達一般の人間が少しでも参考にさせて頂けたらと思いまして、出来れば、その辺りのお話からお願いします。
若松:今の話はすごく、論理的に説明なさっていたと思うんですけど、意識のことは、すごく難しい。年齢とか…。
まず、一番最初に先生から習った時、子供のときに習う意識があるよね。やっぱりプリエというポーズからやるけど、やっぱりプロフェッショナルになってくると、同じプリエでも全然意味と内容が違う。それはやっぱりプロになればなるほど意識が違ってきているから。また年齢が高くなればなるほど「あ、そうか」とわかる。そういう、同じようなことが意識の違いで全然違う、ということがある。
最近コンテンポラリーダンスの公演の映像を見たとき、ダンサーのレベルはみんなとっても高くって、すごくいいんだけど、何か物足りないって感じてしまったんだよね。コンテンポラリーって、小さなテーマはあっても、あんまり大きな明確なテーマがあるわけじゃなくって、物語性とかなくって。前も後ろもそんなに秩序がないのが多いんですよね。すると30分ぐらいまでは面白くっていくんだけども、その後になるとパターンが全部決まってきちゃって。さっきも話したようにダンサーそれぞれが得意なことをやるんですよ。だからパターンがそれほどあるわけじゃないから、30分ぐらい見るともう飽きてきちゃって。最後になると、「う〜ん…」という感じになっちゃう。多いんですよ、こういうパターン。
きれいな容姿を持っている人がダンサーが踊ったらかわいいんですよ。でも何分かしてくると、それを超えて、表現内容っていうと極端だけど、別の演劇っていうか、その人を通り越して、ダンスのある種の神の啓示とか、宇宙とか、そういったものがダンスの合間に見えてくるときに、本当の舞踊的な感動というのがあるわけなんだよな、と、いう風に思ったんですよ。
そうなると、舞踊というジャンルの芸術の中に魅力があるんだったら、それは何だろう、と。
つい、先日舞踊のシンポジウムをやっていて、日本のコンテンポラリーダンスを紹介するビデオを見たんですよね。で、色々な舞踊には多様な広がりあるんです。でも見終わると、えー、これって、昔から舞踊そのものは変わってなくて、見せ方が変わっただけなんじゃない?って私は言ったのね。そしたら場がしらけちゃって(笑)。でも、僕が活躍してた50年代も同じで。当時は映像というのが新鮮だったんで、8ミリでしたから普通に撮影していたら画像が小さいと。するとヌードさんを並べて写せば、なんか面白いじゃないですか?(笑)そんなことやっていたわけですよ。今も同じようなことで。そんなことをずっとやっておもしろがって新しいね、って言っていた時代を何十年か過してずっと見てきたわけで、でもそれって、過ぎてみれば、舞踊そのものが最終的に、どうも向上してないんじゃないか?っていう…。これ、昨日今日の考えなんですけど。
舞踊っていうのは、究極のところ、ただお客さんを集めてきれいな踊りを踊ればいい、っていうものでもなくて…。一番自分が舞踊を見て感動したのは何かっていうと、案外、ないんですよね。
一つは巫女舞いかなあ。沖縄の女舞いっていうのが比較的日本の能に近いようなものなんだけど、それが、日本の現代舞踊だとか、バレエとはまた違う伝統芸能なんですよ。それはそれでまた大きな構造的な欠陥だとかを持っていながらも、なんか魅力があるんですよ。どこかわからない。彼らはみんな巫女さん的な、宗教的なものを強く持っている。でも別に、深い信仰がある人が上手いっていうのとも違って。
それから、昔見た世界の民族舞踊のビデオの中に、アフリカの黄金海岸の子供たちがお祭りの日に踊るっていうのがあって。普通はトレーニングするとかレッスンがあって、コンセプトがあって祭りの日を向かえるんだけど、この子供たちはなんと驚くことに、全然何もやってない。ただお祈りしたり、唄ったりして自然な生活をしているんですよ。全くトレーニングをしてない。でも祭りの当日、お香がたかれて太鼓が鳴ると子供達が突然踊り出すんです。だから何も教えてないの。多分宗教的なものがあるんだろうけど、それはフィルムには写っていない。それがなんとも清々しいんですよね。これは何なのだろう?と。
論理的な話と、非論理的な話を両方しましょうね。それが“体”なんですよ。
つまりダンスは、一つはプロフェッショナルが論理的にやってゆくっていうことと、もう一つは、民族舞踊などの巫女さんのように、トレーニングなどはないけれども、美しく舞うことができる。日常の身体表現の範囲内でやれるものとがある。今の時代は両面を取り入れられた人が勝ちって感じがするんですよね。
お金払ってみせるようになると、全部お客さんに見せるっていうことに意識が集中してしまって舞踊の全体構造がどうも少しわかんなくなっちゃった。だから根本的には意識の中に伝統だとか歴史だとか、神だとかおそらくあって、その舞の中にそういうモノを感じるような人が素晴らしいダンスだ、とインプットされるので、足が高くあがったとか、高く飛んだね、とかいう要素だけで、本当に感動させられるっていうことはないんですよね。
人を感動させるのは、技術だけではどうも、ないらしい。
その内側っていうのが、なんだかわからないんだけど、古代社会から僕らが大脳の中の古い皮質にある天からの雷鳴を恐れるような気持ちがなければ、競争できないですよね、アートは。
次に、私がダンサーとして、体をどう考えていますか?ということになると、やっぱりイメージがあるのは、形ですよね。筋肉感覚で「あ、これがいい感じだな」と感じる事。
一つのダンスの稽古って、大抵45日間ぐらいあるんです。ミュージカルなんかでも、45日間朝から晩まで練習して、それをステージにもっていく。45日って、なんでかしらないけれど、パターンなんですよ。その間、かなり禁欲的な生活をしているわけです。そうすると、最初は決められた振り付けをやっているけれど、やっているうちに筋肉の位置や、腕や足を上げる角度なんかを「ここじゃないかも…」と微調整をしはじめる。この位置に変えると、気持ちがいい。単純に言うと、なんだか違和感のあるポーズがあると、気になっちゃう。それを調整してツボに入ると気持ちいい。
モダンの場合は、振り付けの決まりが自由なように見えるけれど、45日間ずっと稽古していって、通った軌跡っていうのは、けっこう信用できるんですよ。プロとして一定の才能を持った人が45日間磨くと、気持ちのいいところに落ち着くから、見ていても気持ちいい。アマチュアの人は、そこまでのトレーニングをしていなくて、その”決まる”ポジションがないから、見ていても違和感があるんじゃないかな。それが「練習が足りない」っていうことですよね。
ダンサーとしては、45日の練習が終わった時に気持ちよければ気持ちいいんですよ。一番最初は無理な姿勢かもしれないけれど、基本的な技術を持っている人が、ある一定期間反復したら、ある種「プロとしての考えずにやれる」ところに辿り着ける。
練習中は「これでいいかな?」「なんか違うかな?」と頭の中に言葉が山ほど浮かんできちゃう。でもある一定の反復を経て、形が自分の中で「決まる」と、あんまりものを考えなくなる。イメージとしては、川が流れてゆくような感じ。いい舞台っていうのは、川のように動きがサラーっと流れる。稽古は何のためにするかっていうと、その川をイメージしながら、何回も反復すること。
小山:収まりやすい所を探すっていうか
若松:そうそうそう。プロじゃない人の場合は、ソレ以前の問題だからね。45日間ある程度やったら、流れは出ますよ。コンペなんかでも、ある程度の流れはできますよね。後は、体が美しいか、容姿はどうか、難易度の高い動きがあるか、とかが点数に繋がりますけど、流れとしては、45日間という時間をすごせば、流れは出せる。おそらく45日間の間に、気持ちの悪い部分を避けてゆくんだと思うんですよ。気持ち悪いっていうのは、筋肉的に無理っていうか、方向とかタイミングだとか…。筋肉と筋肉、あるいは骨と筋肉が交響曲のようになっていて、筋肉のパートが邪魔するっていうか。それは本人だけじゃなくて他の人が見ていても、気持ち悪いんだと思う。見ている人にも、その筋肉の不自然さに違和感を感じる。それが気持ちわるさとか変さに繋がる。
ダンサーの体の動きっていうのは、途中までは分析的な動きがあって、こっちのタイミングが早かったとか、こっちの重心がおかしいとか、その辺を調整する前段階と、最後とでは意識が全然違っていて、何に向かって稽古しているかっていうと、今言ったような、体が流れるような、筋肉のバランスに持っていきたいんですよね。
ダンサーの身体意識っていうのに、筋肉的な身体意識っていうのは確かにあるんだけど、あるところまでいくと、それは大して重要な要素じゃなくて、もっと大きな流れでしょうね。その大きな流れって言うのは宇宙であったり、そういうものと共鳴すると、ダンサーがスーっと何を考えないでも動けて、お客さんも一緒にその動きに集中できてしまうようなものがあるのではないかと、仮に考えているんだけどね。ダンサーのレベルの身体意識と、一般の人の身体意識の間には、けっこう違いがあると思うんだよね。これは考えて行くと楽しいけど難しいね!!
鈴木:45日間の反復運動というのはスゴイですね。ある領域迄行かれた方が体の地図というか道筋を形作るのにかかる時間が45日間必要なんですね。また先生がおっしゃる、あるところ迄は筋肉やボディに対する意識があるが、あるところからもっと大きな宇宙的な流れに共鳴する、というのは、一流のスポーツ選手などが言っている、意識のフィールドが肉体を超越して、より大きな領域に形作られる、という事をたぶん同じ気がします。例えばF1レーサーの意識が肉体を超えて車体そのものになって車をコントロールしているとか、サッカ−選手がプレーしている自分をはっきり意識しながらフィールドの上空からすべてを把握しているとか。トッププレーヤーはある条件下では意識を肉体から超越しているらしいんですね。
では、ぐっと身近なレベルに話を近づけて来ていただいて、体に形つける身体意識という地図を塗り替えてゆくかというと、質の良い反復運動を繰り返してゆくしかない、ということになると思うんですが、私達の一番の基本姿勢である「正しい立位」というのはどのように訓練をしていけばいいのか?
例えば日常の中で、駅のホームなどで立っている方を見ると、ほとんど全ての人が片足重心です。そして、踵重心だったり、つま先重心だったりします。その軸はバラバラですね。正しく意識して「立とう」と思った時に、どういうことを自分の中で意識すればいいのか、立つためのレッスンというのを、簡単で結構ですので、教えて頂けますか?
若松:わかりやすく皆さんに説明をしたいなという時に脊柱起立筋をよく例に出すんですよ。脊柱起立筋っていうのは、まっすぐ立って正しい姿勢の時に一番筋緊張がないわけです。右や左に傾くと筋肉が緊張して、また真ん中になると緊張がほぐれる。そして脊柱起立筋は腰の辺りで自分で触ることができるので、気がつくことができる。一般の人達に正中線が、とお話しても掴みにくいだろうから、まずまっすぐ正しい姿勢のほうが、曲がっている姿勢よりも楽だ、というのを教えるわけですよ。実際に脊柱起立筋は長くて大きいので緊張していると筋肉疲労が大きくなる。歩くときも脊柱起立筋を触りながら足を一歩だすと、動きよりも一歩遅れて筋肉がピーっと緊張が移動してゆくのがわかる。他の筋肉よりも触りやすいので説明しやすいですよね。
ですから、正しい姿勢ということを説明するときは、まず、脊柱起立筋というものを覚えてもらうことと、まっすぐに立っているほうが体は楽なんだ、ということ、そして実際の動作と筋肉の移動にはずれがあるんだ、ということが言えるんです。
例えば、右の足を出すときは絶対に右の筋肉が緊張するんだけど、1回止まると、今度はバランスを取る方向に筋肉は行くから、反対側に筋緊張が起こる。すると前に出した方の筋肉は緩む。ということ。これは踊りの場合も大切になってくるんです。
ダンスのポーズでも、自分は止まっているつもりでも筋肉が動いていることがある。その認識をダンサーはなかなか持てないんだよね。止まると止まった!と思っているんだけど、見ている人は止まっているように見えないんだよね。実際に筋肉は動いているから。
舞台にスーっと出て行く、というのはすごく技術がいるんですよね。その動きが正しくできれば、受験だったらもう80点!
小山:受験だと、4人ぐらいの学生さんが一度に入ってくるんだけど、もう最初に入ってくる姿で、踊れる子かそうでないかがすぐにわかりますもんね。
若松:そう。その最初の印象ってけっこう当たっているんですよ。面白いですよね。何が「正しい姿勢か」というのは、なかなかわかりにくいんだけど「何かが変だ」っていうのはすぐにわかるんだよね。とにかく、そういう状態をきちんと司るのは脊柱起立筋が大きいし、一番わかりやすいと思います。
鈴木:なるほど。とても良くわかります。ありがとうございます。
あと、もう1点だけ。人間の基本姿勢というのが立位である。そして立ったら、歩く。歩いたら走るというのが全ての運動の基礎だと思うのですが、歩くときのポイントも教えていただけませんでしょうか。
若松:これも難しいですね(笑)。あの琉球舞踊とか、能とか、足を一歩前に出すとき、前に重心をかけないですよね。後ろに重心を残したまま、足を出して、重心を真ん中に移し、またその重心を残しながら次の一歩を出す。と、なめらかな動きになる、といわれます。付随して、どう歩くかって考える時に、歩くって「前」に進む行為ですよね?人間の体にはゴー、とブレーキとあるはずなんだけど、普段「ブレーキ」って意識しないんだよね。素人の人は。ゆっくり動くっていうのは、ただ動きを遅くするのではなくて、重さを残しながら移動させる、体の中にあるブレーキを使うっていうのを使い分けてるんですよ。例えば骨盤を後ろから前に動かすときに、行く方向に意識するだけでなく、後ろ側にも意識を持っているとゆっくりという動きに、重みが出る。ただスピードだけを短くすると、なんだかうすっぺらい動きになっちゃうんだよね〜。プロだったら、ブレーキのかけ方のバランスをずっと考えておけば、雰囲気が変わる。舞台の上では、そのブレーキをいかに使うかで、美しさが見えてくるんです。行く力と戻る力のバランスをとることで美しくなるんですよね。動きがうすっぺらくならなくてすむんですよね。
小山:確かにそうだ。歩く時も重心を後ろに意識しながらうごけばいいのかな…。移動をするときに、オーラを残すっていうか…。
若松:良い事言った!!
小山:舞台で、自分がいい動きをして、そのステージを出て行く時って、何かを舞台の上に残していっているような気がするんですよね。余韻というか。オーラを。
若松:うんうん。わかるわかる。でも日常の生活の中ではブレーキって意識しないんですよね。踊るときはそれを効果的に使っていないと、いい踊りにはならないよね。僕もけっこう年をとってきて、自分が若い子と一緒に舞台に立つとき、競争力があるかっていうのを考えるですよね。名前も肩書きも関係なく体力もある若い人と比べた時に、今話したようなことを実践してみて自分の動きのほうにお客さんの目がいけば勝ちじゃないですか。それを今年の2月に実験してみたの。オーディションうけて、新人公演みたいなので踊ってみたの。面白かったですよ。何かがちょっとわかった感じがしましたね。
鈴木:先生、素晴らしいですね!!
小山:先生、入院してらっしゃったら、それも踊りにしてしまって!点滴の器具を使って振り付けをされたりするんですよ〜。色んな経験を全て踊りにしちゃうの。
若松:人生全て踊りだからね。実際にやってみてわかったことがあって。ともかく、理屈と体の感覚が、ゆったり動いているときにはブレーキや、やっていることをやめちゃう、チャラにしちゃう、という動きがあると、目をひくんですよね。学校で授業をやると93%の生徒は聞いてない。6〜8%の人しか聞いてない。じゃあ、どうすればいいか。反復するしかないんですよね。集中して見ていられる時間は20秒しかない。だからダンスでも山を作って、引いちゃう瞬間を作って、また違うことをする…というように引っ張り方を変えていかないと、お客さんの気持ちをつなぎ止め続けることはできない。
お客さんの呼吸を盗むようなことを入れていかないとね。それを作ってあげないとね。ぱっと驚かせてふっとやめるとか。それが最近の実験ですね。
鈴木:日頃の体調管理はどうされているんですか?
若松:私は癌が二つあって、来年の4月に死ぬってお医者さんにいわれているんですよ。僕は死なないと思っているですけどね(笑)。多発性骨髄腫っていって、骨の中に癌がいるんですよ。背骨の中に。あんまり治療の施しようがない癌の一つなんですよね。だから別に健康体ってわけじゃないんですよね。もともとこんな年齢だし、多少ガタがきていてもおかしくないよな、と思っていて、でもやけに腰がいたいなあと思って血液検査したら、精密検査になって。医者にいったらもう来年の3月には死ぬって…。とにかく、仕事は全部やめてください、っていわれちゃったんですよね。でも引き受けちゃっているものもあるし(笑)。僕はもともとものを明るく考える質なんですよね。面白いな、って思っていてね、死ぬのも。楽しみにしているんですよ。死ぬときの瞬間とか色々考えてね。
ともかくその状態を聞かされて、それならやれる舞台はやっていこうと思って。そしたたら公演が終わる毎に数値が良くなっていくんですよね。何かあるかもしれない。今とっても普通にみえるでしょ?
小山:笑う事が治すって、おっしゃっていましたよね。
若松:自分でおもしろがっている事自体がね。もう、死ぬんだったらやりたい事全部やったほうがいいじゃないですか。踊って死ぬなんて、最高じゃないか。と思ってて。
鈴木:よく聞く「癌の自然退縮」ですか…。先生、素晴らしいですね。
若松:癌と一緒に生きているって感じですよね。他にやりようがないから。今回はこの人生を思い切り楽しもうと思っています!
鈴木:今日は貴重なお話、本当にありがとうございました。